AYAMAKI'S

仕事の事とか、映画のこととか、生き方のこととか書いてます。

どうしてブログを書けなくなってしまうのか? 

 

なぜ書けなくなってしまうんでしょうか?

私は今まで何度も何度もブログに挑戦しては挫折を繰り返してきました。前に書いた記事にもある通り、上手くいかなかったりすると途端にリセットしたくなる衝動を私は持っていました。

立ち上げて3日ぐらいのブログを閉鎖したり、有料コースの途中にも関わらず退会してしまったりと、横で見ていたら「こいつは狂っとる」と思わずにはいられない行動ばかりです。このブログも、後少しで閉鎖するところでした……。

どうしてこんなことをしてしまうのか、と自問自答することも多く、それをまとめてみたのが以下になります。

そもそも文章書くのが好きなのか?

なんだかんだ言ったところで、私は文章書くのが好きじゃないのでは。
と思ったこともあります。ブログが続かないものですから。

絶対に食べたら美味しいと分かっているラーメンを口に入れた時に、何か違うと感じるときのような、そんな感覚なのかなぁ。

でも、文章を書いてる時自体は集中できていて楽しいんです。自分の考えっていうのが細い糸みたいなのだとしたら、それで一枚の布を作りあげていくような地道さが楽しく思えます。

実際、ブログ以外の文章はちゃんと書いてます。特に個人的な日記については必ず一日2000字ぐらい何かしら感じたことなど残すようにしています。

日記を書くぐらいだから文章を書くのは好きなのでしょう。

書きたいことが見つからないのか?

ブログを書く上で一番の問題になるのが「ネタがなくなる」ことだと思います。
自分の書きたいものが見つからなくなった時、何を書けばいいのか分からなくなった時というのは、梅田の地下街で迷子になるような絶望を味わいます。

けれども今のところ「書きたいこと」というのはあるので大丈夫です。もちろん無尽蔵というわけではありませんが……。

稼げないからか?

本当に最初にブログを始めた時には文章を書いて稼げたらな、という思いもありました。自分の好きなことでお金を得て生活を出来れば、どれだけ幸せだろうかという妄想はブログを書いたことの有る人ならほとんど経験あるのではないでしょうか?

でも、そもそもブログを始めても書けなくなってしまって、アドセンスの審査を受けられるようになる前に閉鎖してしまうから、稼ぐ稼げない以前の問題でもあります。

まずはブログがアドセンスの審査に合格出来るようにしないといけませんね。

炎上してしまうのが怖いのか?

炎上、怖いですよね。

確かに自分の書いたことで炎上してしまったら、と思うと文を書く手が止まってしまうかもしれません。樹に縛り付けられてサンドバッグになるような状態には誰も陥りたくないですから。

でも、そもそも「差別的な言動」とか「人を馬鹿にする言動」をとらなければ炎上ってしない気もしてます。

自分のPVを稼ぐために他人を貶すようなことをしないように気をつけてれば、とりあえずは大丈夫かなと思っているので、これに関しては問題ありません。

 

リアルの知人に知られるのが怖いのか?

身バレ。炎上より、怖いんです。私にとっては。

「あれって、お前のブログだよね」と会社の同僚に聞かれるというのは、道を歩いていたら後ろから死神に「今日で人生終わりやで」と肩を叩かれるようなもの。

別にブログにやましいことを書くつもりはないのですが、日記を親に見られるのが死にたくなるほど恥ずかしいことのように、知人に自分の考えを知られるというのは赤面すること間違いなしの黒歴史になりかねないのです。

一度ブログを知られてしまったが最後、同僚がこちらを見て何か言う度に、ブログについての悪口を言われている妄想を抱いてしまうであろうことは簡単に想像出来ます。いずれ仕事もしづらくなってくるのではないでしょうか。

 

ただ、最近は考え方に変化が生まれてきて、別に身バレしたところで死ぬわけでもないし、働きにくくなったら会社辞めればいいや、という心境に至っています。

なぜこういう心境に至ったかは後日別に書き改めます。とりあえず、身バレを気にして書けないというのはもったいないので、書きたいことがあるなら書くべきですね。

反応に一喜一憂しすぎる

これが、たぶん自分の書けない最たる要因だと思うのです。世の中のブログが続かない人たちもこの状態になってしまっているのではないでしょうか?

投稿した結果、スグに反応が帰ってくる記事もあれば、新しいブログなら誰一人見ることもないという記事だってあります。

反応がなければ、「どうせ誰も見てもらえないし」と書く意欲を失ってしまいます。
反応があればあったで「次はもっと良い記事を」と意気込んで、自分の力以上のものを出そうとして結局書けなくなります。

こういう状態に陥ってしまうと、記事を書くのが楽しくなくなってしまうので、それが原因で手が止まってしまうわけですね。

実際、以前ブログが書けなくなった時には、「読まれなかったらどうしよう」とか「どうせ反応もないんだろうなぁ」とか、書いている最中にそういう考えが浮かんできて、書き上げることが出来なくなってしまっていました。

もちろん反応がない時に改善するための反省は必要ですが、いちいち悲しむべきではないですね。

それが分かってきた今なら、もう少し書き続けられそうな気がします。

 

おわりに

確かにブログは書いた後に誰かが見てくれるという所に存在価値があります。

けれども、その反応に喜びすぎても自分の重荷になるし、悲しみすぎれば書くのが怖くなってしまいます。

あまり人の目を気にしすぎないこと。それがブログを続けるコツなんですかね。

 

ありがとうございました。

ある日とつぜん訪れるよく分からない憂うつについて

 

ある日突然、今の気分を言い表すなら確実に「憂うつ」だとなってしまう時ってありませんか?

何をするにも億劫になってしまって、仕事はもちろんのこと自分の自由になる時間が訪れても趣味すら楽しめなくなり、もう一切合切の行動を取れなくなるんです。

食べるのも片付けるのも嫌になる

わたしの場合、そういう憂うつが訪れてしまった日は仕事が終わってからの夕飯も作る気になれないので、買い置きしているインスタントラーメンなんかで軽く済ませることがほとんどです。

それでも時にはお湯を入れた後に、何もかも面倒くさくなってしまって食べるのも嫌になり、かと言って片付けるのもやりたくなく、そのままお湯を入れたまま朝まで放置するということもありました。

部屋は日清のカップヌードル・シーフード味の匂いで満たされましたが、あの香りが充満して衣服を侵食しようが、その時のわたしには関係ありません。一人暮らしで誰にも怒られないことを良いことに、布団のなかで静かにセミの幼虫の様に過ごすのです。

翌朝、カップヌードルの香りが満ちた部屋のなかで目覚める訳ですが、自分という人間がとことん嫌になりながら、冷めて麺が伸びてしまったカップヌードルを片付ける事になります。あの時の情けなさったらありません。あまりに情けなくて出社前に泣いたことも。

原因はどこにあるのか

このとんでもない憂うつは、ある日突然掛かってしまい治るのにも少し時間が掛かります。割りと仕事にも支障が出てしまうレベルで、行動力や判断力などが下がってしまいますので出来るだけ予防するように普段から努めています。

いくつか、わたしなりに原因になっているのではと思うことを上げていきます。

怒る

ともかく他人に怒るというのは疲れます。後輩に注意しなければいけないときでも、そこに怒りがあるのとないのとでは後々の疲れ方が全然違ってきます。

血圧が上がるからなのか、それともアドレナリンが出過ぎるからか。

まぁ、あんまり怒ると脳が破裂して死んでしまうという事も冗談交じりに言われるぐらいですから、体にはよくないものなんでしょうね。

嫉妬する

これはわたしが俗に言う「非リア充」だからか、「リア充」というものにどうしても嫉妬してしまいます。まだこの時期は良いのですが、もうすぐ来る冬の季節には「リア充」向けの行事ごとがバカみたいに行われるので、それを見る度に自分の修行不足も相まって嫉妬の渦に取り込まれてしまいます。

「俺、今週彼女とUSJでデートするんすよ~」

などと好きでもない後輩に自慢されでもしたら、怒りと嫉妬から気が狂いそうになり、結果、憂うつ状態を引き起こされます。実際、よくわからない恋人自慢を聞かされた後というのは、高確率で憂うつになりました。

別のことを考える

仕事中、また何か趣味に取り組んでいる時に、他に何か悩み事でもあると、どうしても目の前のことに集中できず、別のことを考えてしまいます。

人間の脳が本当にマルチタスクに適応できないのかは分かりませんが、やはり今の行動と考えていることが違っているというのは結構な負担になるのではないでしょうか?

「あの後輩、どうやって◯◯したろかな」

と良からぬ妄想に取りつかれながら仕事をすると失敗もすると思うので、そうなると怒られてしまい、余計に疲れます。憂うつ状態確定です。

 

まとめ

とりあえず脳みそに負担を掛けないことを心がけて、普段から「怒らない・嫉妬しない・目の前のことに集中する」ようにすることで、お湯を入れたままカップヌードルを朝まで放置するような憂うつ・無気力感に陥る回数は少なくなってきました。

本当は一度でも、メンタルクリニックにでも行くのがいいのは分かっているのですが、仕事の都合もなかなかつかず……。

もしもう無理だと感じたら、おとなしくセミの幼虫にでも生まれ変わることにします。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

アルコールの一気飲みを強要するのは、そんなに楽しいことなのか。

先日、会社で行われた飲み会で一気飲みをする羽目になりました。

わたしは少々アルコール依存症気味なのですが、会社の飲み会でお酒を飲むのは好きではありません。その理由が「一気飲み」です。普通に食事と会話を楽しんで、その合間にお酒を楽しむのが真っ当な社会人のはずなのですが、今まで参加してきた飲み会のほとんどで「一気飲み」が行われてきました。

これだけ急性アルコール中毒の危険性や、アルコール・ハラスメントが会社に悪い影響を与えることが認知されるようになっても、以前として「一気飲み」が場を盛り上げる楽しいものだという認識が、わたしの会社では当たり前の様に存在しています。

少し愚痴っぽくなるかもしれませんが、このあいだの一気飲みが響いたのか二日酔いになり休日を一日無駄にしてしまった悲しみを込めて書きたいと思います。

なぜ「一気飲み」を強要するのか

そもそもどうしてアルコールの一気飲みが楽しいんでしょう。本当に楽しいんなら自分だけやっていればいいはずなのですが、「一気飲み」が行われる場では必ず誰かが煽られるなり、逃げられないように雰囲気を作られたりして、強要されていますね。

つまり、無理やり誰かにアルコールを飲ませるのが楽しい行為だと感じているから、そういう風に強要するわけです。

強要自体に意味がある

ここで「強要する」ということに目を向けた時に思い出されるのが、中学生・高校生の時にクラスメイトが無理やりやらされていた「コーラの一気飲み」です。わたし以外にも見たことがある人はいるかもしれません。大人がビールを一気飲みするのと何も変わらず単にコーラに変わっただけです。アルコールと違って意識障害を起こすようなことはありませんでしたが、中には気持ち悪くなってもどしてしまうクラスメイトもいました。

クラスの中で強い立場に居る人間が、弱い人間にあれをする理由はただ一つ。「コーラを一気飲みするのは辛いこと」であり、「その辛いことを他人に強制出来る」という事実が楽しいのです・

アルコールの一気飲みを強要するのも同じなのではないでしょうか。ビールや焼酎を一気飲みするのは辛いことです。気分も悪くなりますし、最悪死ぬ危険性すらありますから。その様な行為を他人に強要できる、ということに歪んだ快楽を抱いている人が多いからこそ、世の中から一気飲みの強要がなくならないのです。

強さをアピール出来る

また、他人にアルコールの「一気飲み」を強要する人物というのは、集団のなかでそれなりの立場にいませんか。会社なら上司・先輩、立場に上下がない集まりならば「声が大きく、目立つ」人間です。

そういう人たちは集まりのなかで「自分が上に立っている」ことを誇示するために、他人に「一気飲み」を強要します。自分がしないような辛いことを強制させられる立場であるのだとアピールするために。

ほとんど本能に従って行動しているので、実のところ動物と変わらないんですよ。

一気飲みの強要は殺人と同じ

アルコールを強要することで、もちろん刑事責任を問われることもあります。強要罪や傷害罪、もし急性アルコール中毒で死亡したら傷害致死になります。

そもそもアルコール自体、本来は毒物のはずです。飲み過ぎたら死んでしまうのですから。それを飲むように強制することは、殺人と変わらないという意識がまだまだ一般社会に浸透していないのでしょう。

ガソリンを無理やり飲ませて死亡させたら、誰もが「殺した」と思うはずです。それなのにアルコールなら「運悪く死んでしまった」と考えるのはおかしいんですよ。

一気飲みの強要を厳罰化すべき

現在、一気飲みの強要があったとして急性アルコール中毒になり死亡や後遺障害が発生すれば事件となり明るみにでるはずです。しかし、そうでないのなら「どうせ一日寝れば治るから」と軽視されてしまい、問題扱いしてもらえません。

実際わたしの会社では、一気飲みの強要で倒れたぐらいだと笑い話にしかなりませんし、誰も「同じ過ちを繰り返さないようにしよう」とは考えないのです。むしろ、面白がって「一気飲み」の強要を繰り返すようになってしまいます。

証拠を集めて提出されたら、会社は1000万円単位の賠償金、個人は10年ぐらいの懲役刑というぐらいに罰を重くすれば、もう少し世間のアルコールに対する意識も変わるのではないでしょうか。

まとめ

毎年12月になれば、忘年会シーズンということで毎年のように急性アルコール中毒で死亡したというニュースを目にします。なかには「また、今年もか。アホだなぁ」などと他人事だから笑って済ましている人もいるかもしれません。

「強要されたからといって、飲むやつが悪い」というのも間違いです。一見すると選択肢があるように見えますが、断れないようにされるのですから強制と何ら変わらないのです。

一気飲みを強要する側は楽しいのかもしれませんが、それは「他人に辛いことを強制できる立場に自分がいる」という優越感からくる、歪んだ喜びなのだということを知ってほしいと思います。弱い立場のものをイジメて喜ぶなんて畜生のする行為だと多くの人は分かっているはずなのですが、アルコールが絡むとなぜかオッケーになってしまうのはバカなのでしょうか。

わたしはとりあえず今年の忘年会はウーロン茶オンリーで過ごすつもりです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

「SAW・THE FINAL」:おもしろかったところ・つまらなかったところ

※映画の感想です。ネタバレがあります。ご容赦ください。

 

 ゲームの生存者だと嘘をついて、本を出版したがために本当にゲームに挑戦する羽目になってしまったボビーが、今作のメイン。

もう一つは、SAW6で「逆トラバサミ」から生還した二代目ジグソーから、逃げまどうジル・タックというストーリー。

おもしろかったところ

この作品で面白いのは、「あんたが黒幕か」という驚きでもボビーがどうやってゲームに挑戦していくのかという緊迫感でもありません。

ボビーのボンクラさと、まったく反省していないような表情。それがこの作品でもっとも面白い部分と言えます。そもそも「ゲームから生き残ったという嘘」で有名になったというだけで今までのシリーズのメインキャラよりも小物感が漂いますが、演じているショーン・パトリック・フレナリーの演技も相まって、見ていて笑えてくるレベルのダメ男になっています。

助けるためのゲームにボビーが失敗してしまい、目と口をパイプで貫かれてお亡くなりになってしまった弁護士のスーザン。彼女の死体を前にして、後頭部に手をやりながら息をつくボビーの顔はどう見ても「あちゃー」なのです。人を助けるのに失敗しておきながら何という態度。

また、目隠しされて前が見えない状態のケイルを助けるために必要なカギを、やっと手に入れたと思ったら、ケイルに強くパスしてしまい失敗。その時にボビーが小さく「やばい」と呟くところが、缶ジュースを誤って倒したぐらいのヤバイ感なのがツボでした。

 

ボビー以外で印象に残ったのは、ついに「逆トラバサミ」が作動するところを見られたということ。初代から登場していた「逆トラバサミ」ですが、アマンダはカギを解除して逃れましたし、二代目ジグソーもSAW6の最後で「逆トラバサミ」からとんでもない方法で抜け出しました。

初代から見ていた人の中には、逆トラバサミが作動したらどうなるのだろうという疑問を抱き続けてきた方もいるかもしれません。わたしもその一人です。想像するとアゴのあたりが痒くなってきますが、実際に作動するのを見てしまうとアゴが痒くなるというレベルではありませんでした。

わたしは、「逆トラバサミ」を嵌められてしまったと気付いた瞬間に、想像だけで絶命する自信があります。それぐらい「逆トラバサミ」が作動したらエグかったです。

つまらなかったところ

SAWシリーズのFINALを名乗っているということもあり、とんでもない期待を込めて見てしまうからいけないのでしょうか。SAWシリーズの中で、一番ガッカリ映画でした。

また、これまでと違ってゲームで用いられる装置も何となく地味で、パイプが刺さるだけだったり、首吊りだけだったりです。ボビーの妻であるジョイスが掛けられる装置は割りと凝っているのですが、SAW2のオビも焼却炉であの世送りになっているため、どうしても既視感が拭えません。ボビーが胸にフックを刺してクレーンで持ち上げるというゲームも緊張感はあるのですが、どことなく白々しいんですよ。

どうせだったら、ボビーがゲームをクリアして本当に生存者となって、反省して生きていく風にしたら良かったのでは。ボビーに嘘をつかれ続けた挙句、蒸し焼きにされてしまったジョイスはシリーズでも屈指の可哀想な人物ですね。

あと、二代目ジグソーが超人的に強いのはSAW6でも書きましたが、SAW・FINALでも無双っぷりが凄まじいです。いちいちゲームなんてしなくても、悪人を直接キルしまくった方が早いのでは、と思わせられるほどでした。あまりに強すぎて、少々現実離れしている気がします。

まとめ

最後はしっかり「ゲームオーバー」という言葉で、初代を思いださせる締めくくりでした。「あんたが黒幕か」という驚きもしっかりあり、またそれが「今までの作品への答え」にもなっているので、FINALとしては悪くない終わり方なのではないでしょうか。

7作目ということもあり、SAWシリーズの売りでもある「ゲームの残酷さ」という部分にはマンネリ化も見られます。それに見ている側も慣れてしまって、FINALまで観るような人なら少々の残酷さは気にならなくなっているでしょう。かと言って、どんどんグロテスクにしてしまえば単に「悪趣味なスプラッター」でしかなくなるので、この辺りの加減は難しかったと想像しています。

一気に7作見たわたしとしては、今年公開される「JIGSAW」が楽しみです。

 

お疲れ様でした!

「SAW6」:おもしろかったところ・つまらなかったところ

※映画の感想です。ネタバレがあります。ご容赦ください。

 

ソウ6 (字幕版)

ソウ6 (字幕版)

 

 

メインのストーリーは、アコギな手段で保険の給付をせず利益を掠め取る悪党のウィリアムが、ジグソーのゲームに挑戦していくというものです。「生きる価値がある人間を選ぶ」という、残酷な選択を通じてウィリアムの考えを叩きなおしていきます。

またSAW5でストラム捜査官に罪をなすりつけた二代目ジグソーですが、ふたたび「正体バレ」の危機に迫られます。こちらもなかなか見もの。

おもしろかったところ

SAW6で一番エグいと思ったゲームは「6人から2人選ぶターンテーブル」です。6人の内誰を選ぶのかはウィリアムの手にかかっているのですが、助けて欲しいために6人は必死こいてウィリアムに媚入ります。その姿があまりにも哀れで、見ていて胸が痛くなりました。

わたしがあのテーブルに座らされたら確実に選ばれないと思うので、もしそうなったら、ごちゃごちゃ言わずに合掌して「さようなら~」と言いながらパーンされたい。

「生きる価値があるのは誰か」という選択は本当にえげつないです。ついつい自分の周りでこういうことになったらどうしようと想像してしまったりして、胸が悪くなります。

 

二代目ジグソーの無双

また、二代目ジグソーは職業柄そうなのか、やたら強いです。結局、正体がバレてもその戦闘力の高さで難を逃れるという無双っぷり。「こいつをキルするのは不可能だろう」と感じさせる、まるでアクション映画の主人公の様でした。

最後に初代ジグソーの妻であるジルと、二代目ジグソーとの対決があり、二代目ジグソーが「逆トラバサミ」からも抜け出しすのですが、ゲームオーバーで終わらなかったのが本当に新鮮です。

つまらなかったところ

SAW5より面白くなったと思うので、特につまらなかったなと思う部分はありません。しかし、いくらウィリアムの下で働いていたからといって、ウィリアムのゲームの材料としてあれだけパンパン消されていくのはどうでしょうか。

「命の救済」もへったくれもないまま死ぬことになってしまうキャラもいたりしますので。

まとめ

上にも書きましたが、「本当に大切なのは誰か」という選択をするというのは、ちょっと心にトラウマを残す人もいるかもしれません。わたしは想像しすぎて夜眠れなくなったりしました。

シリーズのなかでも一番胸くそ悪い作品だったと言えるかもしれません。

お疲れ様でした。